ふたりのコーヒー

 ガラスで仕切られた円筒形の中庭越しに年配の男女の姿が見えた。図書館を含む情報総合施設でのお昼どきのことである。
 調べ物のあと一休みしていた私は何気なく彼らに目を向けた。親しげに顔をつき合わせ、何やら楽しそうな様子のふたりは60代半ばといったところだろう。知り合いなのか夫婦なのか…そんなことを考えながら二人の様子に見入ってしまった。
 
 フランチャイズチェーンのコーヒーショップでふたりはコーヒーを2つ買った。席につくとまもなく女性のほうがコーヒーショップに戻っていきスティックシュガーをあと2つ持ってきた。お砂糖3gじゃ足りないわよね、とでも話しているのだろう。
 ふたりは砂糖をそれぞれ2袋ずつ入れ、小さなスプーンみたいな形のマドラーでくるくるとカップのコーヒーをかき混ぜ始めた。くるくるくるくるくるくる…
 
 混ぜすぎだ、もう充分だ。
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幸せな金魚

 金魚
 実家には3匹の金魚がいる。もう何年も母は大事に飼っているのだが、そのうちの1匹がしょっちゅう逆さまに泳いでいる。つまり背びれを下にしてひっくり返っているので、見た目にはとてもしんどそうなのだ。
 が、母はそんな金魚の様子を見てニコニコと「また、おちょけて」と言う。
“おちょける”とは、このあたりの方言で、“ふざけて”といった意味である。
いや、あれは断じてふざけているのではない。病気なのだ。浮き袋か何かの。
 
 ひっくり返り泳ぎを始めて2年ほどになる。最初は母も驚き、もう死ぬかもと何度も思ったそうである。そしてそのたびに手の平に塩を少し載せ、金魚の皮膚の表面を軽くもんでやった。
 なんでも金魚の病気には塩でもむのがよいのだとか。どこかで聞きかじったその情報を信じ「よしよし、がんばれ」と治療を続けた。他の弱った金魚たちにもこの方法を使い、たびたび延命させているのを私は知っている。
 おかげでこの逆さま金魚も、ひんぱんにひっくり返る以外は特に悪いところもなく、元気に育っているのだ。

 
 母はまたグリーンサムを持つ人でもある。
    She has a green thumb.
 緑の親指を持つとはつまり、お花や植物を育てるのが上手な人のことを言うのだが、元気のない草花も、枯れかけた鉢植えの花も、母が世話をすると復活することが多いのだ。元気な花をもすぐに枯らしてしまう私とは大違いで、だから私は、いただいた花を母にあげることが多い。そのほうがお花のためだから。

 こういう人って確かにいる。物言わぬ小さな命を慈しむ気持ちが強く、純粋なのだろう。母の手入れした草花や、金魚鉢でひらひら泳ぐ金魚たちを見て、いつも「あんたたち、幸せだね」と思う。

 私が調べたところ、やはり金魚は“転覆病”という、すぐさま命に関るわけではないけれど、病気には違いなかった。
 けれど、あれだけ大事にされ「大丈夫、遊んでるだけやから」と大らかに笑いながら見つめられていたら金魚はおそらく天寿を全うするだろう。何しろ、特別な手を持つ人に文字通り、手塩にかけて育てられているのだから。
 

いやな言葉

 ごく個人的な好き嫌いであるし、それを言う人に悪意がないことも重々承知している。それを言われたからといってその人を嫌いになったりもしない。もちろん。けれどあえて言うと、私には聞くのがいやな言葉が2つある。
 1つは“余儀なくされて”という言い方。講演の時の講師紹介の場面などで「松上さんは事故により車椅子生活を余儀なくされ…」というふうに使われる。
 頻繁に向けられるこの言葉の何が嫌いかというと、何となく否定的で暗いから。仕方なく車椅子生活を送っているというニュアンスを感じるから。
 もちろん、足が不自由だから車椅子を使っているのは事実で何もおかしくはないし、失礼な言い方でもない。
 たとえば「明日から足で歩ける人生コースと、車椅子で歩く人生コースの2つがお選びいただけますが、どちらにしましょう」なんて聞かれれば、迷わず足コースを選ぶだろう。だって不便なことが少ないし、楽チンだから。けれども、だからといって私が今の車椅子での生活を、毎日いやでしょうがないけれど、やむを得ず、仕方なく送っているなんてことは大間違いなのである。今のところの選択が車椅子コースのみなので、じゃ、そちらで進みましょうか、というくらいの気持ちである。
 ありのままの自分を受け止め、笑ったり怒ったり泣いたりしながら、過ぎゆく一瞬を「ああ、もったいない」と思いながら、与えられたものに感謝しながら、私はただ生きているのである。その私の歩いている道に“仕方なく”という言葉に、大きな顔をして入り込んできてもらいたくないと思う。

 もう1ついやなのは“明日は我が身”という言い方。
 たとえば、障害を持った人が「みんなも町のバリアのことを真剣に考えないと、明日は我が身だよ」などと使うことがある。が、まさに障害を持った当事者である私はというと、決してその言葉は使わない。なぜなら「おまえも明日はこんな目に合うかも知れんのだぞ。覚悟しとけ」みたいな、脅し文句に聞こえてしまうからである。
 それから、逆の立場で「ほー、事故に合われてそんなふうに。いやー、大変ですね。しかし、我々も他人事と思っていてはいけませんな。明日は我が身ですから」という具合にも使われる。
 これは障害を持った人に対してだけでなく、あらゆる場面で、いわゆる不運や不幸に見舞われた人に使われる。
 どうしていやなのかというと、明日は我が身に起こることかも知れないから真剣に考えなければなどと、殊勝な心がけのように聞こえるこの言葉の裏に「今日のところは他人事」という考えが潜んでいるように感じられるからだ。言っている人はたいていの場合、現実に明日そうなるかもというような危機感は全く持っておらず、ただ言葉の上っ面をなぞっているだけなのだ。
 仮に百歩譲って、その言葉が心の底から発せられたものであったとしても、では、自分の身にふりかからないことならば考えなくてもいいのだろうか。その人は病気とも障害とも災難とも全く無縁で一生を過ごし、ある日突然ぽっくり元気に死ぬ人かも知れない。
 たとえそういう人であっても、我が身には関係のないことでも、他人の身に起こる不幸に心を寄り添わせて同情したり、他人の痛みや苦しみを想像できることが大切なのではないだろうか。それこそが人間の証なのだと私は思う。
 というわけで、自分に向って言われたときも、誰かが別の人に向って言うときも「やだね。何か違うぞ」と感じてしまうのだ。
 こんなふうに思うのは私だけで、ただひねくれた捉え方をしているだけなのかも知れない。けれど、やっぱりこれらの言葉は、何回聞いても、時を経ても、ざらざらとひっかかって、私の体の中にすんなりと入ってくることは決してない。

スモモとローズマリー・クルーニー

 みずみずしく甘酸っぱい果肉が口いっぱいに広がる。今年も大石の季節がやってきた。大石とは「大石早生(おおいしわせ)」のことで、このあたりでよく栽培されているスモモの一種である。実は淡い黄色で、皮は鮮やかな赤い色をしている。これを食べると夏はもうすぐそこだ。この時期になると毎年「ちょっとやけど食べて」と、大石を持ってきてくれていたSさんのことを思う。全然“ちょっと”なんかじゃない。これを普通は“どっさり”と言うのだ。
 Sさんは農業を営み、梅、みかん、そしてスモモなどを栽培し、一年中忙しく元気に働いていた。古くからの夫のバイク友だちでもあり、夫がまだ少年の面影を漂わせたツーリング中の写真では、となりですっかり大人のSさんが微笑んでいた。
 すらりとした痩せ型ながら肉体労働者とはっきりわかるたくましさも併せ持ち、日焼けした顔に、くるんと丸い愛嬌のある目が印象的な人だった。典型的なこのお百姓のおじさんはまた、ジャズをこよなく愛する人でもあった。
 私が23歳くらいのとき、当時はまだ友だちであった夫とともにSさんの家に招かれ、愛藏のレコードを聴かせてもらった。おいしいコーヒーを飲みながら。スピーカーやアンプなどオーディオ機器にも凝っていたので多分ものすごくいい音だったのだろうが、私にはそれは理解できなかった。ただ田舎の一軒家でまわりは畑ばかりなので、夜遅くに大音量で音楽を聴いても近所迷惑にならないのがうらやましかった。
 暗い店内で、目をつぶり自分の世界に入り込んだ人が頭をブンブン振りながら聴く音楽。コーヒーやお酒が似合う音楽。私にとってジャズのイメージはそんなもので、つまりちよっと近寄りがたい大人の世界を意味していた。
 Sさんは多分初心者むけに聴きやすいものをセレクトしてかけてくれたのだと思う。スタンダードなジャズトリオ、スイングジャズなど都会の雰囲気ぷんぷんの曲が農家の一部屋に流れ、そこだけが異空間のような趣があった。
 そんな中、私の胸にがつんと飛び込んできた歌声があった。それがローズマリー・クルーニーである。『家においでよ』は日本で江利チエミが歌ってあまりにも有名になってしまった彼女の代表曲だ。正統派のジャズボーカリストである彼女の歌声は情感たっぷり、のびやかで艶っぽく、私を虜にした。
 中でも『カムズ・ラブ』という曲が大好きになった。嵐が来れば通り過ぎるのを待てばいいし、はしかになったら熱が下がって治まるのを待てばいい、だけど恋をした時だけはなすすべがない…そんなふうな歌詞だった。友だち、として済ませてしまえないほどの好意を夫に対して抱き始めていた私にとって、その歌詞は特別な意味を持って響いた。低いベースの音で始まるイントロもいいし、間奏で流れるトランペットやサックスもよかった。 ローズマリー・クルーニーと出会って私は少し大人になったような気がした。

 Sさんは40代の頃から何度かガンを患い、ここ十数年はいつも病気と闘いながら明るく仕事をしていた。
 数年前の夏、肝臓の具合が悪くなり入院することになった。ひとりで見舞いに行った私を、その日は調子がいいんだとベッドから起き上がったSさんが迎えてくれた。末期の肝臓ガンだと彼は言った。わずかな望みを持ちながらも覚悟を決めた、そんな表情だった。私は言葉が見つからず、すがるようにSさんの好きな音楽のことに話を向けた。
「ここでCDを聴けるように、プレイヤー持って来ましょうか」
彼は首を横に振り、「こんなところで聴いてもつまらん。音が違うから。家で聴きたいな」と静かに言った。薄っぺらなことしか言えなかった自分を私は悔いた。死を見据えた人の前で私はあまりにも無力だった。
 その夜、寝る前に電気を消すと、時計の音がいつもの倍ほども大きく聞こえた。カチカチカチカチ…
そしてSさんの病室を思った。彼の耳にはきっと私以上に時計の針の音がはっきり聞こえているだろう。研ぎ澄まされた彼の胸に、心に、響くその音は命を刻む音なのだから。

 それから間もなくSさんは逝ってしまった。今は奥様が農業を受け継ぎ、畑仕事に精を出している。ときどきメールをくださるのだが、このまえのメールにはこんなことが書かれていた。
「ずいぶん落ち着いてきたので、最近は主人の残したレコードを整理し、ときどき聴いているんですよ。京子さんの好きだと言っていたローズマリーさんの歌は“艶歌”ですね」
 あの日、点滴をつけたままエレベーターのところまで見送ってくれたSさん。いつもと違って他人行儀にていねいに「ありがとうございました」と頭を下げた。それが私の見たSさんの最後の姿だが、今、スモモを食べながら甘酸っぱさとともによみがえるのは、その最後の表情ではなく、Sさんがいつも見せていた豪快な笑顔である。
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