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vol.7 悪気のない人々

 みんな決して意地悪ではないし、悪気もないのである。
ただ気づかないだけ、あるいは「ちょっとの間だからいいや」、「誰も使わないだろう」おそらくそんな軽い気持ちで車を止める。
 しかしここははっきり『身障者用』と書かれた駐車スペースなのである。

 今日も、この悪気のない人々をたくさん見かけた。公共の建物入り口付近の身障者用駐車スペース。置くわ、置くわ。 業者さんらしき2トントラック。バタンとドアを閉め、軽快に歩いていくワゴン車の男性。小さな子ども連れの女性。

 私は日々、こういう風景を見る。そして「あーあ、またか」とため息をつく。あの広さがないと乗り降りできない人、入り口からの距離が短くなければ困る人。そんな人たちのための駐車スペースが十分生かされていない。

 知り合いのカナダ人は私に「なぜ日本人はあそこに車を止めるのだ。まったく理解できん。」と驚いた表情で言う。
「なぜって、私にもわからんよ」
「カナダでは許可証を持たない車が止めたら200ドルほどの罰金をとられる。たとえそれがあなた(つまり車椅子使用者)であっても、許可証を提示し忘れて止めれば罰金だよ。たった2、3分で200ドルさ」

 なるほど。飲酒運転が罰則の強化で激減したように、身障者用駐車スペースの問題も罰則強化に頼らなければならないのかも知れない。“モラルの問題だから”“マナーを守って”といったレベルで話をしていても、日本人はこの問題を解決できないような気がする。
 まず「ここへは止めてはいけないのだ」という意識をはっきり持ってもらう。そのほうが近道かもしれないなと思う。なんだか情けないことだけれど

 相手のことを思いやり、正義や礼儀を重んじる。かつて海外の人から賞賛を受けるほどの高い道徳観を持っていた日本人はどこへ行ったのだろう…ね。

vol. 6 ああ、おばちゃんの勘違い

 ケガをして数年が経ったころ、同じ脊髄損傷の人の見舞いに行った。リハビリの先生を通じて事故にあった直後の彼を励まして欲しいと頼まれたのだった。
 私は少し躊躇した。見舞うタイミングのことを考えたのだ。受傷直後の心が揺れている人には、元気に生活する、自分と同じ障害を持つ人との出会いは、エネルギーにもなり得るがショックや絶望を与えることにもなり得るからだ。
 たぶん大丈夫だからと言われ、私は出かけた。ベッドに横になっていた彼は思っていたより落ち着いていたが、まだ車椅子を自由に操ることもできず、将来に対してのビジョンも持てていない。
私を見ると「あなたは強い人だ。ボクはそうはなれない」と、そう言った。
 私は強い人間なんかじゃない。あなたと同じように泣いてばかりいた。時間をかけて努力もして、一歩ずつ前に進んできたんだよ。今すぐは無理でも、いつか心の底から笑えるようになるよ。
私は自分がたどってきた道を振り返りながら言った。
 濃密な空気が満ちていたその部屋に、そのとき突然「はい、ごめんなさいよ」とそうじのおばちゃんが入ってきた。室内清掃の時間なのだった。部屋から出ようとする私を「そのままでいいよ」と制して、さっさとモップを動かし始めた。
すーっ、すーっとモップがけをしながら、おばちゃんは無邪気な顔で「あんたら、友だち?」と聞いた。
「いえ、今日会ったばかりです」
「ふーん」
さらにおばちゃんは私たちの顔を交互にジロジロと見つめた。
そして次に出てきた言葉は
「なあ、あんたら結婚したら」
 である。
「は?」
なんとも唐突である。
障害者どうしで結婚してる人だってたくさんいるから、がんばればいい。どっちも障害者なんだから一緒にいればわかりあえる。結婚できるなんて障害者にとってはありがたいことなのだ、というのが彼女の意見であった。
「うんうん、それがいい」とひとり納得して、満足そうに部屋を出ていった。
残された私たちはお互い、困ったねと顔を見合わせた。
 このおばちゃん、悪い人ではなさそうだが、大きな勘違いをして人の心に土足で踏み込んでいる。まず、障害者は障害者どうしいればいいという考え。「わかりあえるから」と言うが、そんなことはありえない。障害のあるなしに関らず、気の合う人、合わない人、好きな人、いやな奴、というのはいる。人間同士が理解しあえるかどうかに障害という要素は関係しないのである。
 次に結婚が幸せにつながる、さらに障害者は結婚できるだけでもありがたい、という考え。結婚するかどうかは個人の自由で、その人の人生の選択肢の一つに過ぎない。結婚を選ばず充実した幸せな人生を歩んでいる人はたくさんいるのだ。しかし、障害のある私たちが結婚をしない幸せや自由を選んだとしても、世間からは、「障害があるために結婚できないのよね。まー、かわいそう」という見られ方をするのだろう。なんとも単純でアホらしい考え方である。
 さて、私たちはそんな単純アホ思考につきあっている暇はない。そんなことに影響されて自分の選択を変えたりしない。世間の目なんて気にせず、自分の道を歩こう。
 それはそうとおばちゃん、部屋のゴミ、集めずそのままですよー。どうやら自分の考えに酔いしれた挙げ句、仕事を途中で忘れてしまったようだ。うーん。

vol.5 コンサートにて

 好きな人とコンサートやお芝居に行くのは誰にとっても楽しみなもの。相手は恋人や家族や友だち。限られた時間、一緒に音楽に酔い、舞台のきらびやかさに目を奪われ、笑ったり、泣いたり。日常とは違う異空間の世界を楽しむことができる。
 私の住む町は地方の小都市だが、いちおう1200席の大ホールを持つ立派な文化会館がある。そこでお芝居やコンサートなどを見るわけだが、ここが今ひとつ車椅子ユーザーにとっては使いやすいものではない。
 後方から会場に入ると、前の席には階段があって行けない。用意されている車椅子席というのは、最後列のさらに後ろの10席分ほどのスペースのみ。その場所に案内されていくと、鼻のあたりまでの高さの壁のようなもので前が阻まれている。一ヶ所だけはリフトがあり見やすい高さまで上げてもらえるのだが、私のところはそのまんま。
 「ここで見えますか」と主催者だか、会場の人だかが聞く。
見えるはずないやろうが、と心の中でつぶやき、
「いいえ。こんなところで2時間もあごを上げて見たら疲れます」
さらにちょっと意地悪を言いたくなって「この席は超胴長の人の席なんですね」
と答えてやった。
 その言葉には何の反応も示さず、「わかりました。お待ちください」と、やや困惑した顔を見せ、しばらくすると舞台の大道具のような木製の台を持ってきた。
 なんだかちゃっちいなあ。車椅子一台がぎりぎり乗れる大きさである。とりあえずその上に担ぎ上げられ、いよいよコンサートの始まり。
 ところで、私の連れ(夫)はどうしてるかっていうと、台の横に置かれたパイプ椅子にてご鑑賞。私ひとりが台の上に乗っかってるもんだから、横に並んでいるといっても高さに差があり「今の曲、いいよね」と話しかけるのも一苦労。みんなと同じお金を払っているというのに、一人はボロっちい台の上、一人はしけたパイプ椅子。なんだかおかしいなあ。
 もっとひどいのになると、「 “介助者”の人とは別の席になります」なんてケースもある。
「ちょっとあんた、コンサートに一緒に来て離れて座って楽しいんかい? え? 誰が介助者や。私らはな、夫婦(あるいは恋人同士)や。雰囲気ブチ壊しやないかい、オラ」と言う声が胸のどこかで響いているが、本来の上品な私がその声を抑え、「まあ。一緒に座れないのは困りますね。どこか別の席に替えていただけますか」と分別ある大人らしく答えるのが普通だ。
 それにしても、車椅子の席や車椅子のトイレなど、設備があるだけではダメなのだ。どのように使うのかを想像する頭がなければ。そんなことに、そろそろみんな気づいて欲しいな。

vol.4 車選び

「ずいぶん進歩したものだなあ」
 大阪での福祉機器展を見に行ったときの感想だ。体圧を分散するクッションや、補助具付きのスプーン、チタン製の軽量車椅子、階段昇降機などなど。体の不自由な人の生活をより快適にしたり、介護する人の負担を軽くしたりするための道具や用具が巨大な会場にたくさん展示されている。
 何よりうれしいのは、全体に暗い雰囲気ではなく、活気があり見ていて楽しいということだ。特に車のコーナーが目を引く。乗用車やちょっとしたお出かけ用の電動スクーターなどのブースは華やかで、イベントコンパニオンのような美しいお姉さんがいろいろと商品説明をしてくれる。けど、車椅子から車への移乗動作のデモンストレーションにあんなミニスカートでいいのかねぇ。ちょっとドキドキ。どのメーカーのものも年々進歩していて、「へーっ、オシャレ」「わ、これ便利」と驚きの連続だ。

 全体を見渡すと、障害を持つ本人が運転するというコンセプトで作られた車が多いことに気づく。少し前なら、障害者は助手席か後部座席と決まっていた。誰かに運転してもらい、乗せてもらう。そのための利便性を考え、助手席のシートがくるりと回転したり、後部からスロープで車椅子ごと乗り込めるような工夫がされたものが多かった。もちろんそれらの装置も進化している。
 けれど今はそれに加え、車椅子使用者がドライバーという考えで、たとえば、運転はできるが車椅子をたたんで積むのが困難な人のために開発された、車椅子自動収納装置などが出ている。メーカーによって、ルーフ部分、運転席の後ろ、後部ハッチバック、と収納する場所はちがうが、すべてフックをかけリモコン操作で簡単に車椅子を積み込むことができる。これは便利だ。
 「未来はアカルイ」
 そう思った。今はコツと力にものを言わせて自力で車椅子を積み込んでいる私だが、将来腕の力が弱ったとしても、これを使えば運転は長くできるだろう。
 さらに、車椅子から運転席への乗り移りさえ苦になる人のためには、車椅子がそのまま運転席のシートになる画期的な福祉車両も用意されている。車椅子としての乗り心地がイマイチなのは今後の課題ではあるけれど…
 何年か前に訪れた東京、お台場のトヨタの展示場では、なんと手動アクセルブレーキの車の試乗会まで行われていた。好きな車を選び、乗り心地や、車椅子の積み込み動作や運転のしやすさなど、大切なことを購入前に実際に試せるというのはほんとうにありがたい。なんたって高い買い物だから。
 とにかく意識が大きく変わった。誰かにしてもらうのではなく、自分が運転する、自立するという考えが根底にあるのだ。うれしいね!

vol.3 カフェでお茶を…

 誰かとお茶を飲んだり、ゴハンを食べたりするのはとても楽しい時間。さて、そのお店選びをどうするか。
「新しいカフェができたんだって、行ってみようか」
「どこどこ、じゃ今度の日曜日の午後ね」
こんなふうに約束をするとき、車椅子で入れるかどうかを私はあまり考えない。

 車椅子生活をスタートさせた頃、食べたり飲んだりするお店を選ぶときの選択基準は「車椅子で入れるかどうか」であった。
 入り口に段差はないか、2階じゃないか、お座敷なのか、テーブルなのか、通路は広いか。そんなことばかり考え、お店の雰囲気や味なんて二の次だった。まずい店と知りながらも、仕方なく食事に行くこともあった。
 「人に迷惑をかけないよう、多少の遠慮をしなければ」という、常識的な、もっともらしい理由をつけて自分の心に我慢を強いていたのである。でもホントは、段差のある素敵なお店に入るための労力を惜しみ、勇気も出さず、めんどうから逃げていただけだった。
 けれど、そんな店の選び方は間違っている、つまらないということに、いつしか気づいた。自分で世界を狭めてしまっていることに気づいたのである。
 大事なのは“行けるか”ではなく、“行きたいか”ということ。私はおしゃれな器で旬の素材を使ったおいしい料理を食べたり、いい音楽を聴きながらいい香りのコーヒーを飲んだり、窓の外の景色を眺めながら真っ白なプレートに載るケーキを食べたりしたいのだ。
 それは決して贅沢なんかじゃない。もちろん段差を越えるために「お願い。手伝って」と声をかける勇気は要る。手を貸してくれた友人やお店の人や、あるいは通りすがりの人に対し「ありがとう」と心からの感謝の気持ちは忘れない。ただ、誰もが持っているべき“好きなところに行く自由”をいつも大事にしたいと思う。

vol.2 70%off

「あんなにかっこいいのに、もったいないよね」
アメリカに留学していた当時、同じ寮に住むマイケルのことをため息まじりに見つめながら、ある日本人の女の子が言った。
 マイケルは重度障害者で電動の車椅子に乗っていた。澄んだ泉みたいな青い目、柔らかな金色の髪、ソフトな優しいしゃべり方をする好青年だ。映画に出てたっておかしくないほど素敵な人だった。
 「もったいないってどういうこと?」
意味がよくわからない私に彼女が言うには、マイケルはあんなにもハンサムで知的でカッコイイけれど、車椅子だから魅力は半減。ボーイフレンドとしても対象外。あれで車椅子でなければねぇ…ということらしい。
 なるほど。普通なら彼氏にしたいような憧れの人だが、車椅子であるために、その魅力はごっそり引き算されてしまうらしい。
 「ふむ、そんなものなのか」と、ちょっと悲しくなった。

 数日後、ショッピングモールでバーゲンの札が私の目を引いた。
“70%off”
「これぐらいか」
マイケルみたいに素敵な人で魅力半減ならば、さしずめ私はこんなところか、と思ったのである。その後しばらくはバーゲンの札が気になった。だけどいつの頃からか50%offや70%offの札を見るたびに「違う!おかしい!」と感じ始めた。私はそんなにお安くなんてない。今のままで100%だ。車椅子であることで人格になんのマイナスもないし、人としての魅力が損なわれるはずがない。
 「こらーっ、安売りなんてせんぞー」
見えない誰かに向かってきっぱりと叫んでいた。“売る”という表現は適切ではないかも知れないけれど、誰だって自分を安く見積もったり、卑屈になったりしてはいけないのだ。

さてさて、時は流れ、車椅子生活にも慣れ、年齢とともにあつかましさも身につけた私。今は70%offの札を見ても動揺なんてしない。純粋に「ひゃーっ、ヤッタ!お買い得!」と思うだけである。

vol.1 自信をもって

 気づくと私の車椅子生活も19年め。すごい!そろそろベテランと言えるかも。何らかの理由で車椅子生活を始めたばかりの人、その人が失ってしまったものって何だろう。立つこと、歩くこと、自由に移動すること。こんな物理的自由の喪失以上に大きいのは心の喪失感だろうな。日常生活からはじき出されたような寂しさ。巨大な闇が居座り見えない未来。そして何より、自分らしく生きていく自信!これをみんな失くしてしまう。私も同じ道を通ってきたからよくわかる。でも、わかるからこそ言える。
 自信を持つことで人生はドラマチックに変わる。ちゃんと幸せになれるし、ならなきゃいけない。だって自分が幸せでないと、まわりにいる家族や友だちが悲しいからね。自分が幸せならばまわりのみんなも幸せになる。だから、自分の幸せは権利ではなくて義務。そう思ったほうがいい。
 誰かが手をさしのべてくれるのを待っていてはダメ。他人に光をあててもらい、おずおず前に出て行くのなんてヤダヤダ。自分自身が輝き、光を放ち、まわりを明るく照らしてあげる。そんな心意気を持ちたいね。
 車椅子生活は暗くなんてない。気の持ちようと、ちょっとした工夫で彩りのあるものになる。車椅子の世界は狭くなんてない。その気になれば羽がはえたみたいにいろんなところに飛んでいける。どうせ車椅子で生きるのなら、楽しまなければもったいないよ。 
 今目の前にある人生というキャンバスを真っ黒に塗りこめるのも、鮮やかな色をたくさん置いていくのも自分次第!筆を持つのは自分!毎日の暮らしを明るい陽射しとともに歩いていきたいね。